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ブルーノ・タウトとノースライトと少林山達磨寺①

 
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前橋在住のRikoです。息子が仙台在住となり、群馬・前橋を見直すきっかけとなりました。Rikoなりのファインダーを通して主に前橋東部の情報や地元のウォーキングコースを紹介しています。また、疑問に思ったことをリサーチしたり、旅のレポートもしています。よろしくお願いします。

こんにちは!Rikoです。

横山秀夫さんの小説「ノースライト」がNHKでドラマ化されましたね。

ブルーノ・タウトの椅子なのか?この秘密をめぐってお話が展開します。

高崎の少林山達磨寺が出てきます。どうして??と思っていたら、なんとブルーノ・タウトが、2年間暮らした建物が残っていたのです。

只今、群馬県立歴史博物館で、特別収蔵品展「ブルーノ・タウトの世界」が開催されています。(2月7日まで)

そんなブルーノ・タウトとドラマ「ノースライト」について調べてみましたので、ご紹介しますね。

 

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ブルーノ・タウトとはどんな人物?

ブルーノ・タウトは、デザイナーではなく建築家!

ものを知らないRikoは、柳宗理さんのような工業デザイナーと思っていたのですが、都市計画家・建築家だったのですね。

タウトの設計した集合住宅群は世界遺産となっています。

ドイツでは、建築家として有名なので、日本で工芸品のデザインをしていたとは信じてもらえないそうです。

それでは、生い立ちから探っていきたいと思います。

 

ブルーノ・タウトの生い立ち

1880年(明治13年)ドイツのケーニヒスベルク(フランクフルトの北部)に生まれる。

およそ、アラカン世代の曽祖父(ひいおじいさん)の時代です。

 

ギムナジウム(中高一貫校のようなところ)を卒業。

父親の商売が失敗した為、建設会社で働き見習いとして、石積みやレンガ工事など壁体構造を学ぶ。

20歳で国立建築工学校に入学。学費を稼ぐために働きながら勉強。1902年に卒業。

 

卒業後は、ハンブルク、ベルリンなどで、建築事務所に勤務。

また、大学教授の弟子となり修業を積み、建築理論や実務を本格的に学びました。

 

ブルーノ・タウト結婚(26歳)

ベルリンの北にコーリンという村があり、ベルリンの芸術家たちが集まって、切磋琢磨していました。

ここに、タウトとタウトの弟がいたわけですね。

この村に馬の蹄鉄を交換する一家があり、一家には娘さんがたくさんいました。

蹄鉄を交換するためには、時間がかかるため、宿泊や食堂などの施設があります。

 

ここで、タウトが一家の娘さんを見染て、タウトの弟も別の姉妹を見染て、兄弟同士が、姉妹同士と結婚をすることになったわけですね。

タウトは、1906年26歳で結婚し一男一女をもうけますが、妻が体調を崩し、子供は妻の実家やタウトの弟に預けられ、育てられました。

 

ベルリンで設計事務所設立(29歳)

1909年(明治42年)29歳 同僚と共同でベルリンにて設計事務所を設立。

1913年(大正2年)には、「鉄の記念塔」1914年に「ガラスの家」が評価されタウトは名を広く知られるようになりました。

1916年(大正5年)には、職場の部下のエリカと恋愛関係になり同棲するようになり、一女をもうけます。

のちにこのエリカさんと日本に渡ります。

 

トルコに渡り、モスクの建築に魅了される!

この年に初めて現トルコのイスタンブールに渡り、ドイツ・トルコの友好会館の建設に携わる。

この時に見たモスクの建築に強く惹かれ、晩年もトルコに渡ります。

 

モスクワで仕事。

1918年(大正7年)には、モスクワに入って仕事をしました。それが断続的に続いたため、ナチスから睨まれる原因となったようです。

 

ブルーノタウト集合住宅で手腕を発揮。(44歳)

1924年(大正13年)、ベルリンに戻ります。

住宅供給公社の主任建築家になります。

 

当時、ドイツは、第一次世界大戦で敗戦し、工業製品を作ることで賠償金を支払っていました。

それに従事する労働者は、劣悪な環境下で働いており、労働者の住宅は監獄のようでした。

 

労働者の健康を考慮した集合住宅の設計を行いました。

1924年から1932年までに、1万2千戸に及びました。

 

しかしこのことが、社会主義傾向にある建築家とされてしまいます。

 

この時、設計した建築物のいくつかが、国際的評価を受け、2008年にベルリンのモダニズム集合住宅群が世界遺産に登録されました。

ブリッツの馬蹄形住宅は有名ですね。

 

大学教授になるが、政権から危険視!(50歳)

1930年(昭和5年)50歳で、現ベルリン工科大学の客員教授になる。

工科大学というと工業大学のように思いますが、ベルリン工科大学は、東大のような大学です。

 

1933年(昭和8年)からソ連で活動しましたが、実現せず、ドイツに戻ります。

ヒトラー内閣が誕生、親ソ連派の烙印を押され、政権から危険視されます。

タウトは職と地位を奪われることになってしまいました。

 

ブルーノ・タウト エリカと共に日本へ(53歳)

映画とかで、よくあるお話なのですが、ヒトラーが、タウトを逮捕者リストに載せたことを、娘のエリザベートを通じて知ります。

娘のエリザベートは、国防省将官の娘と親しかったので、情報が得られたわけですね。

娘さんは、この頃、25歳くらいになっていますね。

 

1933年(昭和8年)3月、ベルリンを離れ、パリに逃亡、その後、スイス・ベルンの日本公使館で旅券を発行。

上野伊三郎率いる「日本インターナショナル建築会」の招きで日本へ渡ります。

妻や子供たちは、ドイツに残し、秘書のエリカを同伴します。

シベリア鉄道で、ウラジオストック、日本海を渡り、敦賀に到着。

 

1933年(昭和8年)5月、53歳で日本へ、親友の上野伊三郎(欧州に留学し、欧州人の妻を持つ建築家)が敦賀で出迎えた。

上野らは、各地の日本の有名な建築を案内しました。

最初は、桂離宮でした。タウトは美しさを称賛しました。桂離宮や伊勢神宮は、皇室芸術と呼んで持ち上げました。

一方、日光東照宮は、将軍芸術として嫌悪しました。

タウトの日記には、過剰な装飾は、「建築の堕落だ」とまで罵倒されています。

 

上野伊三郎は、日光東照宮は、タウトが幻滅を感じると予想して、見せるつもりはありませんでした。

その事情を知らない人からの申し入れで案内することになり、上野の予想通りとなっています。

 

ブルーノ・タウト日本での軌跡(53歳~56歳)

1933年(昭和8年)5月、来日。

来日直後は、京都の呉服商(京都大丸の当主)下村正太郎の客人として過ごします。

 

1933年(昭和8年)11月からは、仙台の商工省工芸指導所(現産業技術総合研究所)に嘱託として赴任。

1934年(昭和9年)8月、高崎へ移住。(少林山達磨寺・洗心亭)

井上工業研究所顧問として、工芸製品のデザイン、製作指導を行いました。

家具、竹、和紙、漆器など日本の素材を生かしモダンな作品を発表します。

 

1935年(昭和10年)に井上房一郎(井上工業社長の長男・パリ留学経験あり)が、銀座と軽井沢に開店した工芸品の店「ミラテス」で販売をはじめました。

ミラテスは、銀座中で、最も美しい色彩のあるお店でした。女優の原節子さんや作家の宇野千代さんが通うようなお店ですね。

タウトは、どこに出しても恥ずかしくない作品には、「タウト/井上印」印章を付けました。

ヨーロッパはサイン文化ですが、日本の印章文化を取り入れました。

近代化が、進んでいた当時の日本に合うようなデザインがされました。

 

その作品は、群馬県立博物館で行われている「ブルーノ・タウトの世界」で見ることができます。

約2年間を高崎の少林山達磨寺の洗心亭でエリカと共に過ごしました。ここでの生活を大変気に入っていたようです。

日本の伝統的な建築についての本も書いています。

 

タウト 日本での生活は、「建築家の休日」

タウトは、日本滞在中、建築の仕事に恵まれず、それを不満に思っていました。

日記には、日本での生活は、「建築家の休日」として自嘲しています。

 

タウトの設計は、あまりにも日本的でありすぎたのです。

日本には、日本の建築が合う日本の建築の良さを認めていたのではないでしょうか?

タウトの建築で、唯一日本に残っているものは、熱海の日向別邸です。

 

次第に、将来への不安を感じ始めます。

そんな時、トルコ・イスタンブールの大学教授としての招聘の手紙が届きます。

親友の上野伊三郎の「日本にいても建築の仕事に期待できない」という助言もあり、トルコに渡ることになります。

 

ブルーノ・タウト イスタンブールへ(56歳)

1936年(昭和11年)10月 高崎の洗心亭を発ちました。

タウトは、トルコでは、アタチュルク大統領の信用が厚く、アンカラ大学などの設計を行い、建築家として忙しい日々を過ごしました。

最後の仕事は、アタチュルク大統領の葬儀での、祭壇の演出でした。

 

タウトは、1938年(昭和13年)12月、58歳で亡くなりました。

トルコの国葬墓地に埋葬。

 

タウトの死後

タウトの死後、デスマスク、タウトの所有物は、すべてエリカによって日本に持ち出され、洗心亭に預けられました。

タウトの「できることならば骨を少林寺に埋めたい」という希望をかなえて、エリカがデスマスクを少林寺に納めました。

建築の仕事に恵まれなくても、日本での生活は、幸せな日々だったのでしょう。

 

ブルーノ・タウトは、ユダヤ人?

ドイツから逃れてきたと聞くと、ユダヤ人だからと思うかもしれません。

しかし、タウトは、ユダヤ人ではないんですね。

社会主義のドイツ人建築家ということです。

 

タウトの弟や家族は、ドイツに残っています。

日本滞在中も、ドイツ大使館に出向いています。

友人の設計士からも帰国を勧める手紙が届きましたが、「帰国をしても自由がない」と断っています。

 

参考にどうぞ!

↓HPはこちらです。予約してお出かけ下さい。当日、申告書と体温測定があります。

群馬県立歴史博物館 特別収蔵品展「ブルーノ・タウトの世界」(2月7日まで)

 

「ブルーノタウトの世界」基調講演 建築学者 田中辰明氏 You Tube動画(24分)

 

こちらは、少林山達磨寺のHPです。当時のタウトの様子が書かれています。

ぜひご一読を!

 

このお話はまだまだ続きます。次回は!

タウトの孫であるクリスチーヌ・シリーさんの夫は?!

NHKドラマ「ノースライト」の見どころは?

最後までお読みくださりありがとうございます。

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