旧太子駅とチャツボミゴケ公園で戦時中の群馬県を歴史的背景から見てみた②
こんにちは! Rikoです。
今回は、群馬県中之条町の旧太子(おおし)駅とチャツボミゴケ公園から、戦時中の群馬県はどうだったのか?歴史的背景から深掘ってみたいと思います。
太子駅と群馬鉄山・チャツボミゴケ公園?中島飛行機?陸軍前橋飛行場?どんな関係があるの?
その頃、アメリカは、日本への鉄と石油をストップ?
日本は、中国と戦争をしています。蒋介石は、重慶へ逃げてしまいます。山の中です。追っていくことはできません。
欧米は、蒋介石に支援物資を送ります。その支援のルート(援蒋ルート)を断ち切るために、日本は、北部仏印進駐 (今のベトナムの北の方)へ進駐します。
日本は、資源(石油・ゴムなど)を求めて、南方へ進出していきます。東南アジアは、西欧の国々の植民地が多いです。欧米が怒ります。
日本はドイツと同盟を結びます。アメリカとドイツは、仲が悪いです。
1940年(昭和15)日独伊三国軍事同盟を受けて、アメリカは、鉄鋼・くず鉄を売ってくれなくなりました。
この頃の日本は、アメリカに鉄の輸入を大きく依存していました。鉄がなかったら、飛行機、船、戦車、鉄砲の玉も作れません。
アメリカの日本に対する経済制裁です。
1941年(昭和16)7月、日本は、南部仏印進駐
フランス領インドシナ、今のベトナムの南の方へ、さらに進駐した為、アメリカは、石油も売ってくれなくなります。
石油がないと船も飛行機も戦車も動かせなくなります。
日本には、選択肢がなくなってきます。
日本の選択は、戦争をすぐやめるか?いっきに勝つ短期決戦か?
当時は、海軍に航空機部隊があり、空軍はありません。
山本五十六は、とても頭がいいです。アメリカ留学もしています。アメリカを熟知していました。
アメリカと戦争をするべきではないとしていましたが、逆に矢面に立たされてしまいました。
その頃の海戦での戦術は、戦艦同士が大砲で撃ち合うことがメインでしたが、山本五十六は、これからの時代は、空母という考えでした。
空母は、海上での滑走路の役割を果たし、飛行機を発着させることができる船です。
五十六は、航空機を使えば、空爆や偵察などまったく新しい戦術がとれるとして、航空機の研究をし、部下に教え込んでいました。
五十六は、強烈な一撃でその後、和平と考えていました。日本に爆弾の雨を降らせたくなかったのです。
真珠湾攻撃は、大戦果を治めましたが、講和を取り付けるまでは行きませんでした。講和とは、交戦国が互いに協定を結んで、戦争をやめ、平和を回復すること。
1942(昭和17)6月、ミッドウェー島を攻撃しました。
日本の暗号は、解読されてアメリカ軍の待ち伏せに遭うことに。
6隻の空母の内、「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」の4隻と約300機の飛行機を失いました。
何より痛手だったのは、五十六が訓練した優秀な飛行兵を多数、失ってしまったことです。
日本陸軍は、鉄の生産、飛行機の生産、飛行兵を養成するための訓練飛行場の造成を急ぐことになります。
国家総動員の体制を敷き、老いも若きも女性や子供も国民一丸となって総力戦を行いました。
日本中でこのようなことが行われていたと思います。私が知る限りの群馬の代表的なことは?
戦時中の群馬県はどうだったの?
- 1943(昭和18)4月~草津温泉近くの旧六合村、群馬鉄山⇒鉄を採掘。
- 太田市、中島飛行機 戦闘機の製造
- 1943(昭和18)5月~旧群馬町で、陸軍前橋飛行場の造成⇒飛行兵の養成。
●群馬鉄山では、1945(昭和20)1月、最初に鉄鉱石が運び出されましたが、川崎の製鉄所は空襲で稼働できず、戦争の役には立ちませんでした。
●太田市 中島飛行機は、最盛期には、日本に100以上の工場がありました。主力の工場は、群馬県太田市です。
太田市の工場では、山形県の中学生が学徒動員された話を聞きました。熟練工は、出征してしまい、素人がリベット打ちをしていたそうです。
太田工場は、1945(昭和20)2月に、3回に及ぶ、B29の空襲があり、徹底的に破壊されました。
太田市には、1944(昭和19)11月より、特攻隊の飛行機を製造するため、地下工場の建設がひそかに進められていました。完成することなく終戦を迎えました。
●陸軍前橋飛行場(現高崎市)
1943(昭和18)5月~(昭和19)8月に完成。
重機はありません。鍬ともっこで、人の手だけで造られました。子供も背中に砂を背負い運びました。
練習機の訓練始まる
1945(昭和20)3月 特攻隊の訓練始まる。
昭和20年7月 前橋飛行場を米軍が襲う。
20年8月5日 前橋空襲 B29が襲来、535人が犠牲となる。
20年8月15日 終戦
日本中、爆弾の嵐が吹き荒れました。広島、長崎に原爆が落とされ終戦となりました。
鉄の製造→飛行機製造→飛行兵の養成と繋がっていくはずでしたが、空爆や物資の不足、人々が疲弊し、力尽きてしまいました。
太子駅やチャツボミゴケ公園の群馬鉄山は、このような使命を担っていたと思うと感慨深くなると思います。
陸軍前橋飛行場についての記事はこちらです。
【感想】「陸軍前橋飛行場」私たちの村も戦場だった。風船爆弾?
現在は?チャツボミゴケ公園・スバル?
●群馬鉄山→チャツボミゴケ公園(中之条町六合地区)
軍用鉱山から、癒しの場になったチャツボミゴケ公園、草津温泉から20分のところにあります。
●中島飛行機→富士重工株式会社→株式会社SUBARU(太田市)
●陸軍前橋飛行場は、田畑に戻っています。高崎イオンから県庁方面を見たところでです。
前橋のけやきウォークSCは、ダイハツでしたが、その前は、中島飛行機の前橋第一工場でした。
まとめ
この戦争の反省から、今回のコロナでは、日本は、国民に強制をせず、要請というやり方になっているようです。
これからの戦争は、サイバー攻撃とかになるのでしょうか?
新型コロナは、世界中でやってる戦いですからね。自分さえよければ、自分の国さえよければ、というわけにも、行きませんしね。
新しい時代の夜明けが来てくれることを祈ります。
大切な人と、また楽しい日々が送れるように、今は耐えましょう。
明るい気持ちで、過ごしましょう。
最後に、激動の昭和を生きた方々に深く敬意を表します。医療従事者の方々に深く感謝申し上げます。
ご参考になれば幸いです。ありがとうございました。