前橋空襲の翌日14歳の父が一人で叔母一家を探しに行った体験記
こんにちは! Rikoです。今回は、Rikoの父の話です。
昭和20年8月5日の夜、前橋の空は、真っ赤に染まりました。祖父の妹一家は、上電の中央前橋駅の周辺に住んでいました。
自転車が1台しかないので、6日は長男の父が、ひとりで様子を見に行きました。7日には、自転車を借りて祖父と父で二人で探しに行きました。
桐生から前橋(20㎞)砂利道の中を自転車で出かけました。
前橋空襲 はじめに
父は昭和9年生まれで、今年で87歳、終戦時は14歳で中学2年生でした。旧新里村(現桐生市)で育ちました。
今は、農作業も辞め、養生の日々です。会話をするとこちらの方が、混乱させられてしまうので、なるべく若い頃の話をするようにしています。
その中でも、前橋空襲の話は、私が子供の頃から何回も聞かされてきた話ですが、父の言うことが現実のはずがないと本当に思っていたのです。
最近なんとなく前橋空襲のことを検索してみたら、父の言った通りの画像がありました。これは父の戦争体験を書き残さなければと思い稚拙ながら書いてみることにしました。
昭和20年8月5日 前橋空襲
父の叔母は旧粕川村の農家に嫁ぎましたが、叔父が、農業をやめた為、前橋市城東町に出て商売をしていました。
父の記憶をたどりますと、8月5日の夜寝る頃、西の空が真っ赤になったそうです。前橋が空襲されたと思ったそうです。今のように情報がありません。
電話はありませんし、ラジオをつけてもジージーガーガーいうだけでした。
昭和20年8月6日 小さい女の子
6日の朝、父だけで様子を見に行くことになり、前橋へ自転車で出かけました。砂利道を2、3時間かけて大胡線を進みます。
桂萱地区を抜け市内に入る途中で、3歳くらいの女の子が倒れていたそうです。体全体が、ぷぅと膨らんで風船のようになっていたそうです。
明らかに亡くなっているとわかり怖くなって引き返そうとしたそうです。
前橋空襲 焼けただれた街中へ
思い直し、とにかく叔母の家がどうなっているかを確かめなければ帰れないと思い街中へ進んだそうです。
暑くて、煙くて、息がやっとできるくらいの状態です。焼けただれて建物がないので、叔母の家は、焼けてしまったと一目でわかったそうです。
それでも、広瀬川にかかる橋から何件目と見当をつけて、探したところ、防火用水に叔母の家の苗字が書かれてありました。
やはり、家は焼けてしまったとわかりました。
前橋空襲 家の周辺を探す
今度は安否が心配になり、周りを探すことにしました。中央前橋駅方面に行く通りに行ってみたら、空き地があり、そこには、目を疑いたくなるような光景があったそうです。
沢山の死体が積み重ねられていたそうです。
その近くで、女の人が、「見なさんな。見なさんな。お気の毒だから、見なさんな。」と半狂乱のように泣き叫ぶ声が響き渡っていたそうです。
足が、すくみ腰が抜けそうになりながら、また橋の方に戻りました。柳の木の燃え残りに腰を下ろそうと、よく見たら、焼け焦げた人間だったそうです。
家路を急ぐ
怖くなり、大胡線を少し戻ると、学校のようなところがあり、そこにも沢山の亡くなった人や、けが人がいたそうです。
兵隊さんも多く亡くなっていて、胸のポケットから身分証明のようなものが出され、調べられていたそうです。
けが人も運び込まれるだけで看護をする人もいなく、また、けが人の惨状は言葉に出すのも恐ろしい状態だったそうです。
飛行機の急降下
大胡線を桐生方面に進み、勢多農林高校のあたりに来たら、飛行機が編隊を組んで飛んできて、急降下して撃ってきたそうです。機銃掃射です。
周りの人は、わめきながら物陰にかくれました。
旧新里村でも、毎日、飛行機(偵察機)が飛んでいましたが、田舎なので撃ってくることはなかったそうです。父はまさか撃ってくるとは思わず逃げ遅れてしまいました。腰のあたりを玉がかすめたそうです。
撃たれずによかったと思った反面、恐ろしくなって家路を急ぎました。おにぎりを持たされてきましたが、とても、食べようという気にはならなかったそうです。
昭和20年8月7日 再び前橋へ
7日、祖父と父の二人で前橋に出かけ、叔母一家を探しましたが、消息はわかりませんでした。
前日、死体が積み重なっていたところは、翌日には全員救助されていたそうです。
焼夷弾の筒
焼夷弾の筒を拾っている人がいたので聞いて見ると、「この金物は、たたくときれいな音がしてとてもいい物なので、これを鋳物屋さんに持っていくと上等なシャベルができるよ。」と説明されたそうです。そして、いくつか持ち帰ったそうです。
消息がわからないまま、何日か過ごしましたが、人伝手に全員避難して生きていることがわかったそうです。
叔母一家の前橋空襲の当日は?
その後、叔母一家に聞いてみると、旧富士見村に疎開をしていたそうです。知り合いの家に身を寄せていたようです。
身重の叔母が、出産が近いのに、中々、空襲が来ない、どうしたものか?
「中々、空襲が来ないので一旦、前橋に帰ろう」と戻ったその日に空襲がきてしまったそうです。その日に子供が生まれ、よかったと思っていた矢先に、空襲警報が鳴りました。
リヤカーに叔母と赤ちゃん、父の従弟たちである幼い兄弟3人を乗せました。そのリヤカーを父の従妹である長女(16歳)が、桂萱地区まで引いて逃げて、何とか戦火を逃れたそうです。
残念なことに、その日に生まれた赤ちゃんは亡くなってしまいました。
一家の主である叔父さんは、店を守ろうとして周辺に待機していましたが、どうにもなりません。間一髪、広瀬川の橋の下に隠れて助かったそうです。
熊野神社 アクセス
感想
戦争は弱い立場の人が巻き込まれてつらい思いをしてしまいます。
名もなく生まれて散ってしまった赤ちゃん。家族とはぐれてしまったであろう小さい女の子を思うと、二度と繰り返してはいけないことです。
終戦の10日前の8月5日、B29が前橋を襲いました。535人の方が犠牲となりました。
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「陸軍前橋飛行場~私たちの村も戦場だった」飛行場のあらましは?
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