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台湾と群馬の絆を結ぶ?羽鳥又男と羽鳥重郎!②

 
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前橋在住のRikoです。息子が仙台在住となり、群馬・前橋を見直すきっかけとなりました。Rikoなりのファインダーを通して主に前橋東部の情報や地元のウォーキングコースを紹介しています。また、疑問に思ったことをリサーチしたり、旅のレポートもしています。よろしくお願いします。

こんにちは! Rikoです。

数年前、群馬テレビで、「義理人情は海を越えて羽鳥重郎・羽鳥又男」という放送がされました。

その番組から、羽鳥又男さんは、羽鳥重郎さんを慕って台湾へ渡ったことが わかりました。

今回は、羽鳥又男さんの生い立ちを探ってみたいと思います。

 

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台湾と群馬の絆を結ぶ?羽鳥又男と羽鳥重郎!

数年前、赤城山の鳥居峠のサントリービア・バーベキューホールに行ったとき、こちらの冊子を見つけました。

表紙を見て、羽鳥又男さんには、お医者さんのご兄弟がいらっしゃるのかと思いました。

中国語(台湾語?)なので、内容はわかりませんでした。

 

群馬テレビの放送で、羽鳥重郎さんは、又男さんよりも20歳くらい年上の方で、医学博士ということがわかりました。

又男さんは、この重郎さんを頼って、台湾へ渡ったのです。

今回は、羽鳥又男さんの生い立ちから辿ってみたいと思います。

 

羽鳥又男さんの生い立ちを見てみましょう。

富士見町に生まれ、石井小学校の教壇に立つ。

羽鳥又男さんは、1892年(明治25)前橋市富士見町石井に生まれました。

 

又男さんの父は、第2代富士見村の村長でした。その由緒ある家柄の四男として生まれました。

 

石井尋常小学校卒業 

 

東京の資産家の養子に出され、中学に入れてもらいましたが、病弱のため国元へ返されたというような記述もありますね。

 

東京正則予備学校 中学2年終了。

 

その後、苦学の末、教員免許をとり、母校石井小学校の教壇に立っています。

 

キリスト教との出会い。

そこで出会ったのがキリスト教でした。

石井小で開かれたキリスト教に関する講演会を聴き、関心を持つようになります。

 

講演会では、「何事も意気込みをもって積極的に実行しなければならない」と講師が訴え、それに心打たれたとされています。

 

そんな折、村長を務めていた父の政治上の理由により、一家は離れ離れになってしまいます。

 

羽鳥又男さん、24歳で台湾へ渡る。

1916年(大正5)親戚の羽鳥重郎博士を頼って台湾に渡ることになります。(24歳)

台湾に渡ってすぐに洗礼を受け、クリスチャンとなっています。

※一部の記事では、又男さんは、重郎さんの甥とされている記述もありますが、群テレでは、親戚ということでした。そして、又男さんは、重郎さんをとても尊敬していました。

1918年(大正7)台湾総督府中央研究所に勤務(26歳)

1926年(大正15)総務官房秘書課勤務(34歳)

1934年(昭和9)総督府理事官(42歳)

1936年(昭和11)総督府人事課長(44歳)

中川、小林、長谷川、3代の総督の側近として責務を果たし、信頼を得ていました。

 

1942年(昭和17)4月 長谷川清総督から、台南市長に抜擢されます。

戦時下の台南市長となりました。(50歳)

戦時下における文化財保護は台湾の人に高く評価されました。

 

1945年(昭和20)5月市長解任(53歳)

日本の降伏後も台南市に残り、行政アドバイザーとして台南市政に関わりました。

残された日本人の世話をしたり、その子弟に教室を借り、授業を続行させました。

 

昭和22年日本へ

1947年(昭和22)台湾から引揚。(55歳)

国際基督教大学(ICU)の建設委員会の主事となり、大学の設立や整備に尽力しました。

 

ご存じのように、ICUは、眞子さまと佳子さまが学ばれた大学です。

25歳でキリスト教に入信してから、YMCAの活動にも積極的に参加しました。1975年に東京YMCAの名誉会員第一号となりました。

 

そして公私共に、積極的な活動をしています。

台湾からの留学生の受け入れ施設にかかわったり、台南からの引揚者の為の台南会を組織していました。

 

1975年9月 83歳で亡くなりました。

葬儀は、国際基督教大学教会で行われました。

 

戦時中の文化財の保護という功績ですが、それ以前に又男さんの人となりが素晴らしかったと思います。

 

台南市長を解任されても、さらにアドバイザーとして市政にかかわった。とありますが、普通は、こんなことはありえないと思います。

 

よほど、台南の人たちとの繋がりが深かった、又男さんに人間としての魅力があったと思われますね。

 

村長としての父の背中を見て育ち、四男ということで、たくさんの男兄弟の中で揉まれて育ったわけですね。

 

東京での生活で社会を学び、親戚の羽鳥重郎博士を尊敬し、キリスト教の講演で聴いた、「意気込みをもって積極的に実行」をそのまま人生に置き換えてしまった方と思います。

 

この時代の農家では、長男以外は田畑がもらえないです。

 

新天地にいくか、お婿さんに行くか、勉強して役所に勤めるとかで食べていかなければならない覚悟があったとも思います。

Rikoの祖父母の男の兄弟を見てみると、農家や桐生の機織屋さんに、お婿さんにいっています。学校の先生になって満州に渡った人もいます。

農村では、務めるにも仕事先がなかったと思います。

 

まとめ

羽鳥又男さん、日本統治時代の最後の台南市長!

親戚の医学博士羽鳥重郎を頼って、大正5年24歳で、台湾へ渡りました。

台湾総督府に職を得て、総督府人事課長(44歳)となり、中川、小林、長谷川、3代の総督の側近として責務を果たし、信頼を得ていました。

昭和17年、台南市長に抜擢されて、戦時中の市長となりました。

 

戦時下における文化財の保護で高い評価を受けました。

赤崁楼修復、開元寺の大鐘の保護

 

終戦後も、しばらく台南市政のアドバイザーとして残りました。

 

羽鳥又男さんは、大正5年に24歳で台湾に渡り、昭和22年55歳までの30年間を台湾で過ごしています。

日本に帰国後は、国際基督教大学の設立に尽力をしました。

 

次回は、群馬テレビ「義理人情は海を越えて羽鳥重郎・羽鳥又男」で、放送された台南市長時代のエピソードなどをご紹介したいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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