台湾の赤崁楼に銅像が?羽鳥又男さんは戦時中の台南市長①
こんにちは! Rikoです。
今回は、数年前、台湾に行ったときに知った、羽鳥又男さんについて調べてみました。
台湾で尊敬されている日本人としたら八田與市さんが有名ですよね。
でも、前橋市富士見町出身の羽鳥又男さんも、今もなお台湾の方々に敬愛されています。
そんな羽鳥又男さんを紐解いていきたいと思います。
台湾の赤崁楼に銅像がある羽鳥又男さんは、戦時中の台南市長!
羽鳥又男さんについては、富士見町出身の方はご存じかと思いますが、前橋・群馬県全体では、なかなか知られていないのではと思います。
私自身も、台湾旅行で初めて知りました。台南市の赤崁楼(せきかんろう)に胸像があります。
ガイドさんから、「日本統治時代の最後の台南市長で、今も台湾の人々に慕われています。」と説明がありました。
随分、時間が経っているのに、今も慕われている?とはどういうこと?
説明文を見てみるとなんと出身が勢多郡富士見村とあるではありませんか。
私も旧勢多郡の生まれなので、とても誇らしく思いました。
とりあえず銅像の説明文を撮影しました。
月日が経ちいろんなことが繋がってきましたので、ご紹介したいと思います。
まずは、台南市の赤崁楼(せきかんろう)とは? 胸像の説明文は?
どうして赤崁楼に胸像があるの?
胸像の贈呈者は?台南市奇美文化基金会?について説明していきますね。
台湾・台南市の赤崁楼(せきかんろう)とはどんなところ?
台湾の古都、台南市にあります。
台南市で一番古い史跡で、人気の観光スポットです。
1600年代、日本では江戸時代の頃。
ヨーロッパ諸国は、世界各地に植民地をつくっていましたね。
その頃、台湾はオランダの統治下に置かれていました。
そして、オランダが最初に拠点にしたのが、台南でした。
長崎や近隣の国に行くのに、地理的によいところだったわけですね。
オランダは、台湾人に対して重税をかけた為、反乱が起こりました。
当時は、オランダ陣営も竹でできていました。
1653年、オランダは、その反乱から守るために頑丈なレンガで城を建てました。
これが赤崁楼です。発音は、せっかんろうと思います。
当時の呼び方は、プロヴィンティア城です。
※1624年に、オランダは、ゼーランディア城(安平古堡・あんぴんこほう)を築きました。
近くに、1653年にプロヴィンティア城(赤崁楼)を築きました。 台南の行政、商業の中心としました。 |
赤崁楼の目的は、オランダ人が、台湾人から身を守るための新たな軍事拠点だったのです。
しかし、10年もたたないうちに鄭成功(ていせいこう)が、オランダを追放します。
鄭成功の水軍は強かったのですね。
1624年から1662年までの38年間を台湾のオランダ統治時代と言いますね。
オランダ軍を降伏させている鄭成功の像
その後、赤崁楼はさまざまな役割を果たします。
鄭成功時代は、役所の役割を果たしていましたが、鄭成功の死後は、役所が廃止され、火薬や武器の倉庫として使用されました。
清朝時代に入ると、自然災害や反乱によって、城が全壊してしまいます。そして、残った基礎上に新しい建物を2つ建てました。
一つは、文昌閣で、受験の神様が祀られています。教育振興を目的として建てられました。
こちらの1階に羽鳥又男さんの胸像があります。
もう一つは、海神廟です。
1871年(明治4)宮古島島民遭難事件というのがありました。琉球に年貢を納めに行った船が台風に遭い、台湾南部に漂着、60名ほどの内54名が台湾のパイワン族に殺害されてしまいました。
数年後に、明治政府は、台湾出兵をして報復しています。
遭難と台湾出兵を一連のものとしてとらえ、牡丹社事件(ぼたんしゃじけん)とも言われます。
この事件で、琉球は日本の領土であり、台湾は清国の領土であると認めたことになったわけですね。
この事件を受けて、海神の庇護を受けるために海神廟が建立されました。
日本統治時代には、陸軍病院としての役割を果たしたこともあります。
近年では、石碑や文化財を収集する歴史館としても利用されました。
このように、各時代によって修復をかさね、紆余曲折を呑み込んできた歴史的建造物ということがわかっていただけたと思います。
外来政権に翻弄された跡でもあります。
台湾・台南の観光スポット 安平古堡と赤崁楼
安平古堡・赤崁楼、こちらの2か所は、ツアーで行く場合は、見学コースになると思います。
オランダ時代、鄭成功時代、清朝時代、日本統治時代と流れをおさらいしておきましょう。ガイドさんの説明がとてもわかりやすくなります。
それでは、羽鳥又男さんの胸像の説明文を見ていきましょう。
台湾・台南市・赤崁楼にある羽鳥又男さんの胸像の説明文は?
羽鳥又男
1892-1975
台湾が日本領土であった時代最後の台南市長であった。
在任中、台湾文化を尊重し 歴史古跡、文物並び民俗風習の保存に尽くした功績は 非常に偉大なものがあった 。
群馬県勢多郡富士見村に生まれ1975年に没す。享年83歳
24歳の時、海を渡り台湾総督府に勤務し、職員,属官、官房、秘書課理事官・人事課秘書官などを26年間の長期にわたって歴任し、中川、小林、長谷川、三代総督の側近として仕えた仕事振りは抜群であり各総督の信頼を得ていた。
1942年4月台南市長に就任するや全力をもって台南市にある古跡文化財の保全に努めた。
当時は第二次世界対戦末期で財政が窮乏しており軍部の反対などもあったが、台湾市民の心を汲んで羽鳥はあらゆる困難を克服し、歴史的建造物の台南孔子廟赤崁樓を修復した。
それにより台南の歴史古跡が旧来の容貌をそのまま残して得たのである。
孔子廟の記念祭典が今に至るまで断つことなく行われ、加えて開元寺の吉鐘を軍部の共出命令から救い出し、今日も朝夕その美しい音色を四方に響かせているのはひとえに市長の努力によるものである。
台湾の歴史文物及び民族の保存に対する功績は実に偉大である。その台湾文化を尊重する精神は今でも常に台南市民に偲ばれている。
財団法人 台南市奇美文化基金會 贈呈
赤崁楼の胸像の説明文より引用
どうして、赤崁楼に羽鳥又男さんの胸像があるの?
以上の説明文から、歴史的建造物である赤崁楼を、第二次世界対戦末期で財政が窮乏し、軍部の反対がある中、赤崁樓を修復したということでした。
台湾文化を尊重し 、文化財保全に尽くしたということですね。
そして、開元寺の吉鐘とは、1695年につくられた大鐘で、お経が刻み込まれている伝統的な鐘です。
日本でも鉄を溶かして武器として転用していましたよね。ここ台湾でも軍部への供出がされていたのですね。
その大鐘の保護を訴え、窮地から救いました。
その鐘は、今も開元寺の「大雄寶殿」に収められています。
また、羽鳥又男さんの人柄や仕事振りは、抜群だったようですね。
職員から入って人事課秘書官まで昇りつめ、三代の総督の側近を務めたとは、コミニュケーション能力が、かなり高い方だったと思われますね。
胸像を寄贈していただいた台南市奇美文化基金會とは?
調べてみると、財閥の奇美グループが出てきました。
合成樹脂や電子部品、食品メーカーなどを傘下に持つ奇美グループで、台湾を引っ張るような大企業のようです。
その奇美グループの創業者であり、実業家の許文龍氏により、銅像が贈呈されました。
許文龍氏は、台南生まれで、現在93歳です。
2015年時点の記事によりますと。
許文龍氏は、日本統治時代の台湾経営を高く評価し、その当時貢献した日本人を胸像の製作によって、顕彰しています。
※顕彰とは、人物の功績を表彰して、さらに後世まで伝えるという意味合いがあります。
後藤新平氏や新渡戸稲造氏も胸像が寄贈されています。
そして、許文龍氏には、日本政府から旭日中綬章が贈られています。
本当にありがたいことだと思います。
また、後々、許文龍氏についてご紹介したいと思います。
次回、羽鳥又男さんの生い立ちについて探ってみたいと思います。
最後まで、お読みくださりありがとうございます。