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支倉常長・スペインで有名な日本人第3位?慶長遣欧使節を調べてみた。

2019/05/07
 
支倉常長
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ご訪問ありがとうございます。前橋在住のRikoです。 息子が仙台在住となり、群馬・前橋を見直すきっかけとなりました。 Rikoなりのファインダーを通して主に前橋東部の情報をお届けしています。歩かないとリンパが巡らない年齢となり、地元のウォーキングコースやお買物、日帰り温泉などをセットで提案できるようなサイトにしたいと思っています。 また、疑問に思ったことをリサーチしたり、旅をレポートしたりもしています。よろしくお願いします。

こんにちは。Rikoです。

支倉常長(はせくらつねなが)というと、名前だけは知っていますよね。洋風の服を着た人というイメージですね。まったく歴史に詳しくないRikoです。

仙台の青葉まつりでは、大きい船の山車に乗って現れます。それは、すごくカッコイイですよ。でも、いったい何をした人?派遣されたのはわかるのですが?

スペインで有名な日本人第3位です。仙台に出入りしている身として、調べ始めたらニッチもサッチも行かなくなりました。

長いですから、興味のあるところへジャンプしてくださいね。

旅程・人数・年齢・事柄については、おおよそとお考え下さい。自分なりに調べてみるのも面白いかと思います。

 

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支倉常長・スペインで有名な日本人第3位?慶長遣欧使節を調べてみた。

その前に、慶長遣欧使節の目的は2つです。

スペインとの国交キリスト教宣教師の派遣の派遣願を申し出るため。

歴史に疎いRikoは、なんだか?意味が分からないのです。

どうしてスペインなの?どうして宣教師を派遣してもらう必要があったの?

 

なぜ、スペインとの国交?

メキシコとの直接貿易の許可を得ることでした。
その当時、メキシコはスペインの植民地でした。その為に、スペイン国王の許可を得なければならないということですね。

 

なぜ、ローマ法王に宣教師派遣願?

伊達政宗公は、新田を開墾して米を増産していましたね。
それと、海外と貿易をして収入を得ようとしました。

そして、石巻港を世界との貿易の玄関口としようと考えたわけです。

その為には、ヨーロッパの人たちが信じるキリスト教の教会が必要と考えました。そして、宣教師の派遣をローマ法王に申し出たということです。

 

世界との貿易!政宗公は、なぜ、そう考えたのでしょう?

背景からみてみましょう。

世界情勢は、大航海時代です。スペイン帝国は、世界最大の植民地帝国でした。太平洋地域では、フィリピンを植民地としていました。

マニラとアカプルコの貿易船(ガレオン船)マニラ・ガレオンで利益を上げていました。
スペインは、ガレオン船の造船技術を国家の最高機密としていました。外国に漏らした者は、死刑となるほどでした。

この二人がキーパーソンとなります。宣教師ソテロ大使ビスカイノです。

 

宣教師ルイス・ソテロ

スペイン帝国セビリア生まれのフランシスコ会宣教師
フィリピン、マニラに渡り、日本人キリスト教徒に日本語を学ぶ。

1603年、フィリピン総督の書簡を携え来日し、家康、秀吉と謁見。
日本で布教をしました。伊達政宗との知遇を得て、東北にも布教しています。

1613年 布教が禁止され捕らえられる。政宗が助け、慶長遣欧使節の副使として
常長を助け先導役となる。最後は、悲劇の結末となってしまいます。

当初、政宗とソテロの計画は、メキシコまでの派遣でした。ソテロは、イエズス会に代わってサンフランシスコ会が主導権を握り、日本の司教になることを望んだようです。

その為には、直接ローマ教皇に会い、承認を得たいスペイン国王との直接交渉が重要と考え、政宗もその方が有効と考えました。

布教に熱心なため、布教の為に嘘をついたり、人を欺くようなところが多かったようです。関係の史料には信憑性に疑問があるともいわれています。

 

大使 セバスティアン・ビスカイノ

スペインの探検家。マニラ・ガレオンの貿易商人。マニラ、メキシコ間を往復。
カルフォルニアを探検して安全な港を探したり、海岸線を調べたりしていました。

スペインとの繋がりが出来たのは・・・
1609年、前フィリピン総督が乗った、サン・フランシスコ号が、台風に遭い千葉県南部に漂着し、地元民が救助しました。

家康は、ウィリアム・アダムスが建造したガレオン船を贈り、総督を送還するということがありました。このことが、きっかけで交流が始まります。

1611年 救助されたことへの答礼使として、ビスカイノが来日します。
ヨーロッパの鉱山技術に興味があった家康の要請に沿ったもので、同時に日本近海にあると言われる「金銀島」の調査もかねていました。

ビスカイノは、二代目「サン・フランシスコ号」で浦賀に入港。

家康に謁見しました。通商を望んでいた日本に対し、前提条件は、キリスト教の布教でした。家康は、布教は受け入れませんでしたが、日本沿岸の測量の許可をしました。

ビスカイノは、仙台に行き政宗に謁見し、仙台藩の北部沿岸の測量を始めました。

この時です。

1611年12月2日 慶長三陸地震の津波に合いました。海上にいて、被害はありませんでした。かろうじて仙台へ戻ることができました。それから、南下して九州沿岸まで測量をしています。

1612年9月16日 測量が終了し、家康・秀忠の返書を携え、二代目「サン・フランシスコ号」で帰路についたところ、暴風雨に合い、大破して11月14日に浦賀に戻ることとなりました。

船をなくしてしまったので、幕府に船の建造費の用立てをしましたが、断られてしまいました。仙台でサン・フアン・バウティスタ号の造船に協力して、ソテロ・常長らの遣欧使節団に同乗して帰国しました。

 

伊達政宗公が太平洋貿易に興味を持ったのは?

宣教師ソテロ(通訳の役目もしています。)に伴って来たスペイン大使ビスカイノの話を聞いたことでした。当時の帆船は、海流と風を利用して航海する方法です。ビスカイノは沿岸の測量をしていますね。

仙台領内には、良港が多く日本国内で最適な位置と知らされたことでした。

それは、政宗公にとっては夢が膨らむことだったと思います。

慶長大地震の復興費用も必要という考え方もあったのではないでしょうか?

天下取りの野望があったのでは?とも言われています。倒幕とまでは、行かなくても家康から離れて独立したかったという見方もありますね。

そして、ソテロを通じて使節派遣の機会をうかがっていたわけですね。わかってきましたね。

一方、家康もメキシコ貿易に関心をいだき、スペインとの交渉をしていました。家康は、貿易は歓迎するがキリスト教は望まないという方針でした。

イギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)を外交顧問としていました。家康の関心は布教にこだわらないイギリスの方へと傾いたのです。

それを打開するために・・・

1612年10月 幕府の使節船サン・セバスチャン号(120トン)でソテロを使者として常長らが浦賀より出航しますが、直後に暴風雨で座礁してしまいます。再び、仙台へ戻ります。

この挫折をうけて、伊達政宗は自ら船を建造し、自らの大使を派遣しようとしました。

1612年11月、海岸の測量終了後、帰路に着いていたビスカイノが乗っていた、二代目「サン・フランシスコ号」が、暴風雨で大きく破損して浦賀に戻ります。

ビスカイノも帰りの船が欲しいということになりますね。

政宗は仙台領内において、ビスカイノの協力によってサン・フアン・バウティスタ号を建造しました。幕府からも派遣された船大工も参加しています。

家康と政宗の間にどのような話し合いがあったかわかりませんが、太平洋貿易にはどちらも興味があるわけですね。次に常長のことを調べてみましょう。

 

支倉常長がどうして大使に抜擢されたのか?

支倉常長の生い立ちから辿っていきましょう。

1571年 山形県米沢市立石の米沢伊達家・中級家臣の山口常成の子として生まれました。

父の兄、支倉時正に子がなかった為。7歳で養子となる。

宮城県柴田郡川崎町(上楯城)で青年期を過ごす

その後、支倉時正に実子が出来たため、家禄を半分もらい独立

文禄・慶長の役に従軍、朝鮮に渡海、足軽・鉄砲組頭として活躍しています。西大崎一騎の鎮圧を行った武将の一人と記録に残っています。

二男二女の父です。

常長という名前は、死後、キリシタンであったことを隠すために系譜に使われた名前です。自筆の署名は「六右衛門長経」(ろくえもん)とされています。

常長の同僚3人は、政宗の小姓頭(藩主の側近に当たる役職)を務めています。派遣されることがなければこの職についていたであろうと言われています。

常長の欧州での評価は、「思慮深く、談話に巧みで、品格のある好人物」「彼は、背が低いが容姿端麗にて沈着、聡明にて謙譲だった」という感想が残されています。

政宗は、こうした支倉の資質を見抜いていたのではないか?政宗の常長に対する評価は高かったのではないか?

また、一方では、父親が罪を犯し、連座して追放の処分になるところ、旅の危険性を想定して任命されたという考え方もあります。

しかしながら、常長の能力を高く評価していた政宗は、この任務と引き換えに処分を取り消し、常長に再生のチャンスを与えたのではないか?

そして、常長も名誉回復の為、全力を尽くしたのではないか?

当初は、メキシコまででしたが、さらにスペインとなると危険性が増します。あわただしい準備の中、任命されたのが支倉常長でした。

なぜ、大使に選ばれたのか?今も研究が続けられています。

 

支倉常長の航路を辿ってみましょう。

キリスト教の宗派の争い、スペイン・ポルトガルの衰退、イギリス・オランダの台頭、歴史の移り変わりを背景に。

徳川家康、伊達政宗、宣教師ソテロ、大使ビスカイノ、常長のそれぞれの思いが交差しながら、慶長遣欧使節団は出発します。

まずは、メキシコへ、そして、エスパーニャ(スペイン)を経由してローマへ赴くことになります。

まずは、アカプルコを目指しました。陸路を徒歩で移動したり、小舟に乗り換えたりしながら、ローマまで赴きます。

帰路には、マニラで、船が買収されて、何とか長崎にたどり着くということもありました。時には、旅費に貧窮、疲労で静養しながら、7年かけて仙台へ戻ります。

400年前の船上生活・陸路移動とはどのようなものだったのか計り知れないですね。

また、3艘に1艘は転覆という時代、命を賭して出かけたということです。

いよいよ、出航です。

1613年10月 サン・ファン・パウティスタ号 月の浦(現石巻市)から出航です。常長43歳でした。

1回目の幕府船は120トンですが、サン・ファン・パウティスタ号は、約500トンの西洋型軍船です。荷物が多く載せられるようになっていました。

常長使節団正史宣教師ヘテロが副士となって、ビスカイノとスペイン人乗組員40名、仙台藩士12名 幕府の役人10名 日本人商人・水夫・家来など120名 総勢180名を乗せて出航しました。

この中には、東北代表のキリシタン指導者や豪商が含まれています。

幕府の役人には家康のスパイのような役目の人もいました。お互いに見張り合うような形になり、精神的にも体力的にも大変な旅と思われます。

 

慶長遣欧使節 アカプルコ上陸~メキシコシティ

アカプルコ

太平洋を東に進みメンドシノ岬を認め、カルフォルニア海流に乗り、3か月をかけてアカプルコに上陸です。

サン・ファン・パウティスタ号は、常長らがヨーロッパを回っている間、日本に帰り、また、アカプルコに迎えに来ています。

1614年の1月28日 アカプルコ上陸後、港で現地の人との衝突事件が起こっています。日本人10人のみに武器の携帯を認め、ほかの日本人は帰国まで武器は預かりとなっています。

メキシコシティ

アカプルコからクエルナバカを経由してメキシコシティへ向かいました。
メキシコシティは、標高2240mの高地です。高山地帯の山越えという厳しい旅です。

1614年3月24日 メキシコシティ到着。

メキシコシティのサンフランシスコ教会で、日本人の40人ほどが洗礼を受けました。
常長はまだ洗礼を受けませんでした。

 

家康と政宗の書状 メキシコ副王グアダルカサル候に謁見

メキシコ副王グアダルカサル候に謁見し、伊達政宗の書状家康・家忠の返書、それぞれの贈り物を進呈しました。

政宗の書状には、「領地でキリスト教になりたいものがなることには意義がない、宣教師を渡海させてほしい教会をたてて厚遇する」

家康の書状には、「キリスト教は日本の宗教とは大きく異なり我が国において縁がない」

という書状を同時に受け取ったメキシコ副王グアダルカサル候は、驚き、理解に苦しんだことが察せられますね。

また、大使ビスカイノも「キリスト教を喜ばない(縁がない)」という記載にびっくりしたと探検記に残しています。

日本人商人らは、そのままメキシコに滞在しました。3年くらい滞在していて、帰りの船で帰ったり、そのまま住み着いた人もいました。

 

慶長遣欧使節団30名 メキシコ~スペインへ向けて

ベラクルス

その後、1614年6月ソテロと常長ら一行約30名は、ベラクルスより、スペインに向けてスペイン艦隊のサン・ホセ号太西洋へ出港しました。

1614年7月 バハマに寄港し、大西洋を越えました。

 

1614年10月 出発から1年後、スペインのサン・ルーカル・パラメーダに上陸。

ここで、小型帆船に乗り換えて、グアダルキビル川を遡上しコリア・デル・リオに上陸。

 

コリア・デル・リオは、セビリアの南方15㎞にあるグアダルキビル川に面する町です。

コリア・デル・リオ

スペインからローマに向かった日本人は半数であり、残りはここで支倉の帰りを待っていたとされます。

 

慶長遣欧使節 セルビアからマドリードへ

支倉常長

1614年10月27日 常長は、セルビアの市議会で使命を述べました。

1614年12月 マドリード

1615年1月30日 エスパーニャ国王フェリペ3世に謁見。常長44歳です。

1615年2月 常長洗礼を受ける。フェリペ3世同席のもと、王立修道院の付属教会で洗礼を受けました。洗礼式には、聖職者をはじめ、総理大臣、有力な政治家などが出席しています。これは、とても稀なことでした。

道中も手厚い歓待を受けました。日本は「黄金の島」で、通商をしたい国でしたが、日本でのキリスト教の弾圧を知っていましたので、いい返事はできません。
常長らを好待遇しておけば、好転するのではないかという考えもありました。

常長らは、粘り強く交渉を続けました。

1615年8月 マドリッドからローマへ出発

 

慶長遣欧使節 ローマ到着

イベリア半島から陸路でローマに移動して謁見を待ちます。

1615年10月 ローマに到着

1615年11月3日 ローマ教皇パウルス5世と謁見を果たしました。

教皇に宣教師の派遣のお願いとスペインとの外交交渉の助力をお願いしました。

ローマ入市式が行われ、歓迎を受けました。

常長にローマ市民権証書が授与され、貴族に叙されました。

1616年1月 ローマを出発。

その後も、マドリードに戻りフェリテ3世との交渉を続けました。

スペイン国王の返書を待ちつつ、セビリア近郊のコリア・デル・リオに滞在していました。

キリスト教の日本での全面禁止という情報が入ると、次第に冷遇されて行きます。
よい返事がもらえず失意のうちに帰国しなければならなくなります。

 

慶長遣欧使節 スペイン~アカプルコ~マニラへ

1617年7月セビリア出発

ソテロと支倉は日本へ帰るためにメキシコで再会しました。

1618年4月 迎えのサン・フアン・バウティスタ号でアカプルコを出港

1618年8月10日 マニラ到着

サン・フアン・バウティスタ号がマニラでイスパニアに売却を余儀なくされました。

スペイン国王の返書を待ちつつ、マニラに2年近く滞在します。ここで、ソテロと別れます。

 

常長は船便で長崎に行き、1620年9月20日仙台に戻りました。

1613年10月出発~1620年9月20日に帰国。常長50歳です。
丸7年振りの帰国となりました。

その2年後、失意の中に死去してしまいました。常長52歳でした。

常長が出発した後すでに、日本国内では、キリスト教の弾圧が始まっていました。このことは、宣教師を通じて本国に伝わっていました。

通商交渉は成功しませんでした。また、帰国時には、禁教令が出されていました。

また、豊臣家の滅亡(1615年)、幕府側の窓口だった家康も亡くなって(1616年)おり、日本も大きく変化した時期でした。

常長の心の中は、「何の為に、くやしい。」という思いなのか?「成功はしなかったがやり遂げた。」という思いなのか?わかりません。

キリスト教禁止の壁の前では、どうにもならないことです。

スペインはどうだったと土産話もできないような状況ではないでしょうか?
苦労は報われることなく、逆に封印されてしまいます。

じっと耐え忍ぶしかなかった心の内を思うとやり切れない気持ちになります。

ソテロは、のちに長崎に密入国しようとして捕らえられ、伊達政宗の助けも及ばす、火刑により殉教しました。(スペイン国王の返書を携えていたようです。)

その時その時代に、それぞれの立場でベストを尽くしたものと私は思います。

 

家康は、なぜキリスト教を受け入れず、弾圧したのか?

当時のイスパニアは、宣教師を送り込んで情報を収集します。それをもとに兵力を送り込んで、多くの国を植民地にしてきました。家康は、その危険を感じていました。

 

岩倉具視使節団によって、改めて、脚光を浴びる!

昨年の大河ドラマ「西郷どん」にも出てきましたが、岩倉具視使節団で、支倉らの存在が改めて脚光を浴びました。

岩倉使節団は、欧米視察によって日本がいかに遅れた国であるか思い知らされていました。
イタリアで、250年前の、常長らの外交使節を知り、岩倉具視らは、多いに勇気づけられました。

1873年 明治6年まで、慶長遣欧使節団のことは、歴史から消されていましたが、明治政府により調査が進められました。再び、歴史の日の当たる場所にでることになりました。

 

コリア・デル・リオ ハポン姓の不思議?

ローマからの復路、スペイン国王の返信を待ちつつ、セビリア周辺や、コリアデルリオに9か月ほど滞在していました。

日本では、宗教上の弾圧が始まっていて、実際には、鎖国に踏み出しています。

帰国をよぎなくされる支倉一行です。

 

9人の日本人が消えた理由?

専門家によるとスペインに行った日本人は26人で、そのうち17人は日本に帰ってきた記録がありますが、残り9人については記録上は証明できないとなっています。

なんと9人の日本人がどこかに消えてしまったということです。

その理由は400年の間、謎に包まれたままでした。

有力な説とされているのは、スペイン周遊中に現地の人と結婚し家族をもったためとされます。

日本で禁教令が出ているため家族を連れて帰国することができません。

そこで、家族を持った一員をこの地に残し帰国しました。そして、この9人については、支倉は日本に帰ってきて何も触れていません。

スペイン人と結婚し、キリスト教徒として生きていることを日本で話すことは、その家族までが差別を受けてしまうことになります。

帰らなかった人たちのことや日本にいる家族を思いやって、なにも話さなかったということです。

また、別の見方では、スペインに来るのは、大変なので、支倉の命令で残ったという考え方もあります。

そして、残った日本人には、日本で洗礼を受けていて、最初から帰るつもりがなかった人や現地の人と風土に惹かれて帰りたくなくなった人がいました。

 

コリア・デル・リオにはハポン姓を持つ人が、600人以上います。 

スペイン語のハポンには、日本という意味しかありません。そして、そのハポン姓の赤ちゃんには、お尻に蒙古斑があります。

ハポン姓の人々は、自分たちをサムライの子孫と考えています。

この地方の稲作には、日本と同じように苗代をつくる風習があります。これはヨーロッパの地域では見られないことです。

残った日本人が、日本式の稲作を広めたのではないか?と思われます。

現在、DNA鑑定を行って日本人との関連性を調査中ですが、いまだ解明されていません。

1992年には、宮城県から支倉常長の銅像が送られています。

2013年 皇太子さまが訪問されました。

2019年2月 サンドウィッチマン 字幕の漫才ライブを開催!

 

慶長遣欧使節関係資料 仙台市博物館にあります。

次回、仙台を訪れる時は、仙台市博物館を見学し、石巻にも足を延ばしてみたいと思います。より感動的になり楽しみです。

政宗がローマ法王にあてた親書、関係資料、常長らが持ち帰った品々は国宝に指定されています。
仙台市博物館に収蔵されています。2013年には、ユネスコ記憶遺産に登録されました。

サン・ファン館(愛称):宮城県慶長使節船ミユージアム
宮城県石巻市サン・フアン・バウティスタ号の復元船があります。

 

常長のふるさと、宮城県川崎町では、毎年6月には、「支倉常長まつり」が行われます。

仙台青葉まつりは、平成31年 5月18日(土)19日(日)です。

このお話は、たたけばたたくほど、いろんなことが出てきます。この辺で筆を置きます。長々とゴメンナサイ🙇。

最後まで、お読みいただきありがとうございます。

 

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