台湾と群馬二人の羽鳥さん・時代の流れと出来事を整理⑤
こんにちは!Rikoです。
前回までは、「羽鳥重郎・又男」さんをいろいろ調べてきました。
今回は、二人の羽鳥さんを中心に日本統治時代の始まり、スペイン風邪、八田與市さんについて、時代の流れと人物と出来事をザクッと整理してみたいと思います。
台湾と群馬二人の羽鳥さん・時代の流れと出来事を整理してみた。
台湾は、数千年前からマレー・ポリネシア系の部族が住んでいました。
16世紀中期、ポルトガル船により発見され、麗しの島「フォルモサ」と呼ばれました。
台湾産パイナップルに、フォルモサパインとありますね。
とても甘くて芯まで食べられます。ぜひ、食べてみましょう。
↓ざくっと、時代をまとめてみました。
◆台湾
オランダ統治時代1624年~1662年 38年
鄭氏政権時代 1662年~1683年 21年
清朝統治時代 1683年~1895年 212年
日本統治時代 1895年(明治28)~1945年(昭和20) 50年
中華民国統治時代1945年~・・・現在まで76年
◆日本
鎖国 1639年~1854年 215年
江戸時代 1603年~1868年 265年
明治維新で西洋の文化が取り入れられる。
清朝時代が長いです。半端ないですね。200年!日本統治時代の50年で台湾は、ガラッと変わります。
戦後の台湾は、ぐちゃぐちゃになりながら頑張ります。台湾を知るためには、中国を知らないとなりませんね。
羽鳥重郎・又男さんを中心に日本統治時代の流れを見てみましょう。
↓こちらは、台湾・台南市のハヤシ百貨店屋上の神社跡です。
日台時代は、1895年(明治28)~1945年(昭和20)の50年間です。この間は、台湾は、日本で、台湾の人々は日本人だったわけです。
第二次世界大戦中は、台湾も日本と同じように、米軍の空襲を受けました。台南でも市街地が壊滅的な打撃になりました。
↑ハヤシ百貨店の屋上には、被弾の痕跡や機銃掃射の弾痕が多数残されています。
日清戦争に勝利して日本が台湾をおさめることとなり、第二次世界大戦で負けて日本人は、台湾を去ることになります。
日本時代の最初の頃は、台湾では、ペスト、コレラ、赤痢、チフス、マラリアなどの伝染病で、人々がバタバタ倒れてしまったんですね。
これに着手したのが、医師であり、政治家でもある後藤新平氏でした。さらに、後藤氏は、都市計画家でもありました。
日本から100人もの医師を送り病院をつくり、防疫を行いインフラを整備して、衛生環境の改善を行いました。
この医師の募集に、応募したのが羽鳥重郎さんでした。
羽鳥重郎さんは、又男さんよりも20歳年上です。
1899年(明治32)29歳⇒1946年(昭和21)77歳まで。
50年近くを台湾で医者として過ごしています。
羽鳥又男さんは。
1916年(大正5年)24歳⇒1947年(昭和22年)55歳まで。
30年間を台湾で過ごしています。
真珠湾攻撃は、1941年(昭和16)12月です。
1942年(昭和17)4月に、羽鳥又男さんが台南市長になっています。
許文龍氏は、1928年(昭和3)年に台南市に生まれて、終戦時は17歳でした。
おおよそ、60歳代(2021年)の人から見ると。
羽鳥重郎さん⇒曾祖父の年代
羽鳥又男さん⇒祖父の年代
許文龍氏⇒父の年代
と思うとわかりやすいと思います。
台湾巡業中の力士が!相撲風?スペイン風邪!
1918年(大正7)春、台湾巡業中の力士3人が、謎の風邪で亡くなってしまったんですね。そして、20人以上の力士が倒れました。
その謎の風邪は、本土に戻った力士から、相撲界に広がり、日本では、相撲風邪と呼ばれました。これが、スペイン風邪だったわけですね。
これは、(大正7)4月に発生して、7月には収束するんですが。
1918年(大正8)秋には日本で爆発的な感染となり、それは年をまたぎました。1919年2月の新聞の見出しには、「医者も看護婦も総倒れ」という見出しです。
それも、春(大正9)には沈静化したのですが、また、その年の暮れに再び大暴れしたわけですね。この第2波の方が死亡率が高まったと新聞が伝えています。背筋が凍りますね。
このスペイン風邪の死者は、日本で35万人、台湾で4万人の死者を出しました。
今回の新型コロナも、すでに、第3波、4波になっています。「変異すな。」と願うばかりです。対策をして、うまく付き合いましょう。
明るい気持ちで過ごしましょう。
鳥山頭ダムの完成!
鳥山頭ダムは、1920年(大正9)着工~1930年(昭和5)に完成です。
1923年(大正12)関東大震災があり、ダム予算削減となりますが、苦労の末、完成となりました。
鳥山頭ダムは、日本統治から、25年目に着工、10年後の1930年に完成しています。
今年(2021年)は、完成から90年を経ています。いまだ現役です。
八田與市さんを見てみたら、悲しい結末が!
八田與市技師は、1886年(明治19)生まれで、羽鳥又男さんよりも6歳年上ですね。
1910年(明治43)東京帝国大学工学部を卒業し、台湾総督府内務局土木課に就職しました。(24歳)
鳥山頭ダムを完成させました。(1920~1930)
1942年(昭和17)フィリピンの灌漑調査に行くため乗船。その船が、アメリカ海軍により撃沈され、殉職してしまいます。56歳でした。
敗戦後、台湾を去らねばならない八田與市さんの妻は、夫が作りあげた鳥山頭ダムの放水路に身を投じてしまいます。
「みあと慕いて我もゆくなり」と書き残されていました。
旦那様とダムと台湾に生涯を捧げた奥様だったのですね。
八田與市技師は、台湾のダムの父として最も尊敬されています。
次回は、許文龍氏についてお伝えしたいと思います。
最後まで、お読みいただきありがとうございます。
それでは、また、お会いしましょう。