【感想】「陸軍前橋飛行場~私たちの村も戦場だった」風船爆弾?
こんにちは! Rikoです。
2019年1月20日に「陸軍前橋飛行場~私たちの村も戦場だった」の映画を観てきました。
群馬町(高崎市)でスポット的に上映されていました。コロナで、上映が中止になったりしているようです。コロナが収束に向かえば、県内各地でスポット的に上映されるのではと思います。
機会が、あれば鑑賞されることをおススメします。印象に残ったことをご紹介します。少しネタバレありです。
私の記憶違い、解釈違いがあるかと思いますが、ご了承ください。
「陸軍前橋飛行場」県内各地で上映
1/20は高崎市市民活動センター・ソシアス
2/3太田市薮塚本庁文化ホール
3/16 東吾妻町コンベンションホール 午後2時からの上映です。
鑑賞券は一般1000円(当日500円増)小中高校生は、当日券のみで800円
お問い合わせは群馬共同映画社(027-252-2261)へ。
住谷修村日記
スゴイのは、村日記の存在です。住谷修さんが、昭和15年から10年間。村の出来事を書き留める日記をつけていました。
当時、公的な戦争関係の書類は、燃やされてしまいましたが、こちらは、個人の物なので、家で保管されていたわけですね。
読みにくいので、息子さんが高校を出て、清書をされたそうです。住谷修さんは、家族の為にこれを、世に出さないように遺言しました。
とても細かく書かれていて重要な記録だと思います。映画は、この記録を元にナレーションがされて行きます。
前橋飛行場で森軍曹が飛行機を紹介してくれました。
その当時、女学生だった方の証言では。
高校3年生の女子学生3人が、学徒動員の工場が休みだったので、飛行場へ行って見たそうです。ピンクのマフラーを巻いた操縦士から、「飛行機の説明をしてあげようか。」と声をかけられました。
森軍曹「この飛行機わかる?」
女子学生「戦闘機!」と答えると。
森軍曹「いや、偵察機だよ。本当は、太田の中島飛行機の戦闘機で行くはずだったけど、太田が空襲にやられたので、これで行きます。」
女子学生「一人一機でいくのですか?」
森軍曹「いや、二人だよ。」これと言って腰に下げているお人形を指さしました。
もう、それ以上聞くことができませんでした。。。
森軍曹「明日、発ちますから見送りに来てください。」
出撃というと、飛び立ったまま、空の彼方へ消えていくというイメージを持っていましたが、飛び立った飛行機は別れを惜しむように低く旋回するようです。
その旋回した飛行機に女子学生たちは白いハンカチを振り続けたそうです。やがて空の彼方へ飛んでいきました。そして、しばらく動けずその場に立ちすくみました。
その寂しく、怖いイメージはいまだに頭の中から消えません。帰りは泣きながら家に帰ったそうです。
また、市内の特攻隊が宿泊する旅館の娘さんは、県庁に勤めていました。隊員から「県庁の上を3回旋回するからね。」と言われ、約束の時間に空を見上げることもあったそうです。
風船爆弾って何?
前橋が空襲されたのは、軍服と風船爆弾と飛行機を作っていたからと、ずっと小さい頃に聞いたことがありました。
その頃のイメージは、風船に爆弾をつけて上昇気流に乗せてアメリカを攻撃しようなんて笑い話のようで本当なの?と思っていました。
ところが、アメリカにとって風船爆弾は、思ったより恐れられていました。アメリカは乾燥していますから、山火事を起こすことが怖かったようです。
また、得たいが知れないことで恐ろしかったようです。どこから飛ばされてきたのか?もしかしたら、太平洋上に基地があるのか?日本兵が上陸しているのか?と詳しく調査が行われたそうです。
実際に、アメリカのオレゴン州で、ピクニックに行った先生と生徒5人の6人が風船爆弾が爆発して亡くなっています。
風船爆弾の補修は?
その風船爆弾を実際に検査していた方のお話がありました。
1畳くらいの繊維が作業台に広げられます。繊維の薄いところに鉛筆で印をつけます。次の工程で、その部分にこんにゃくの粉を糊にしたようなもので補修します。
補修された生地は裁断されて、縫製されます。そして、直径10mの大きさの気球のようなものが出来上がります。
それを、茨城の日立から上げて、成層圏に到達してアメリカに落ちると聞いていたそうです。
こんにゃくの粉事件
風船の穴を塞ぐ為に、こんにゃくの粉を使います。ある時、作業後の身体検査が始まったそうです。こんにゃくの粉を持ち出して売った人がいたことが分かったそうです。
作業に使う糊ですから、持ち出しはいけないとわかっていたと思いますが、それほど、食べるものに困っていたわけですね。
最後に
地元、群馬町の上映ということで、1日に3回上映されました。10時半からの1回目は、ほぼ満席でした。地元の高齢者の方々が、次々に入場していきました。50代から上の年齢です。
あまり若い人は見かけませんでしたが、仕方のないことだと思います。申し訳ないことに、私自身も最近まであまり興味がないことでした。
父が要介護となり物忘れがひどくなりました。農業のこと、土地のこと、山林のことなどに加え、いろんなことを聞いておくべきと思いました。
その中に前橋空襲のことや叔父一家が満州から帰ってきた話、仲がよかった年上の従弟がシベリアに行って帰ってこなくて泣いた話などがありました。その中で、前橋空襲の話を体験記で残しています。
私も、前橋空襲の話や今回の前橋飛行場の映画の話を息子にします。また、その息子も年齢が来れば、その子供に伝えていくと思います。
また、このような映画ができたことにより、知る人がより多くなると思います。
私の母は亡くなっています。亡くなった人からは話は聞けません。記憶を記録に残すことは大事です。
よろしければ、こちらもご覧ください。
最後まで、お読みいただきありがとうございます。