陸軍前橋飛行場?どこに?いつ?どのようにできたの?飛行場のあらましは?
「陸軍前橋飛行場~私たちの村も戦場だった」のドキュメンタリー映画を観に行ってきました。1月20日(日)高崎市市民活動センター・ソシアスで、1日に3回の上映がありました。
映画の中には、飛び立つ飛行機を見送った方、風船爆弾を検査していた方、前橋空襲の話など、当時の映像や写真とともに何人もの体験者の方が話されています。
戦争というと沖縄や知覧を思い浮かべますが、前橋にもこのようなことがあったと初めて知りました。
当時の資料は燃やされてしまったので、遥かアメリカの公文書館にある歴史資料を見て当時の状況を調べたそうです。その記録には、前橋の索引があり沢山の資料が残されていたということです。
まずは、前橋飛行場がどこに?いつ?どのようにできたのか?をご紹介したいと思います。
はじめに
群馬町のやすらぎの湯に行ったときです。こちらのポスターを見かけて映画があることを知りました。文部科学省選定・青年向け・成人向けのドキュメンタリー映画です。
制作のきっかけは、旧群馬町の元教育長の鈴木氏が自費出版した本でした。その本を読んだ監督の飯塚氏が、映像にしたいということで、鈴木氏も賛同されたということです。
映画は、2018年7月に完成して、8月から前橋シネマハウスなど、高崎、東京などの映画館で上映されていました。
今、調べてみると、クラウドファンディングがあったのですね。知っていれば寄付をしたところでしたが、残念でした。ゴメンナサイ!
映画を見ての記憶で書いていますので、解釈の違いや記憶違いがあると思いますが、ご了承ください。
昭和16年12月真珠湾攻撃
米・英の連合国に宣戦布告
3年9か月に及ぶ太平洋戦争に突入した。
当時は、真珠湾攻撃の戦勝ムードになっていました。
昭和17年6月ミッドウェー海戦
ミッドウェー島とはどこで?なぜ攻撃を?
ハワイの北西2000㎞のところです。日付変更線の北の方ですね。ここにアメリカ軍の航空基地がありました。
山本五十六司令長官は、このミッドウェー島を奇襲することで、アメリカ空母を誘い出し撃破しようと考えました。
ところが、日本の暗号は、解読されてアメリカ軍の待ち伏せに合うことになりました。壊滅的な打撃を受けました。4隻の空母「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」を失いました。
飛行機約300機を失い、多くの飛行兵も失う結果となってしまいました。
このことは、大本営発表では伏せられていました。日本陸軍は、飛行機の生産と飛行兵を養成するための訓練飛行場の造成を急いですることになります。
昭和18年5月19日 軍の飛行機の誘導路を造ります。
18年5月19日陸軍が国府村を訪れました。軍の飛行機の誘導路を造ります。これが第一声です。22日には測量が始まり、8月には工事が始まりました。
証言では、畑を2丁も取られると生活ができなくなる。反対運動を起こそうとしていたら、憲兵が来て「そういうことをするとここにいられなくなるよ。」と言われたそうです。
憲兵のサーベルの音が村に響き渡っていたという証言もあります。
私も農家の生まれなのでわかります。その当時、田畑が取られるということは、職場を失うことであり、家がつぶれるというようなイメージだと思います。
否応もなしに、強制的に契約となったそうです。
前橋飛行場の位置は? 作業の様子は?
飛行場の位置は、利根川の西側で、群馬県庁の裏側方面です。おおよそ高崎イオンの南東方面です。
陸軍は、前橋飛行場としましたが、地元では堤ケ岡飛行場と呼んでいました。平らに見えますが、5、6mくらいの高低差があったようです。
飛行場建設には、建設会社もありますが、沢山の勤労奉仕がありました。地元の人をはじめ、群馬郡、勢多郡、碓井郡の青年団、学校の先生や小学校の高学年の子供も砂を運びました。
また、前橋刑務所服役者、朝鮮人が駆り出され2000人を超える人が動員される日もあったそうです。
当時、市内の小学5年生だった方の証言では、みかん箱くらいの木の箱に先生がスコップで砂を入れます。それを背中に縄で縛り背負います。歩いて利根橋を渡って堤ヶ岡まで運んだそうです。
子供の数は、1日200人から300人で、各学校が交代で行ったそうです。
そろいの支度で、作業をしているので、何だろう?と思っていたら、前橋刑務所の囚人が、根っこを掘り出すなどの作業を行っていたそうです。
朝鮮の方は、家族で来ていて、主にトロッコを扱っていたそうです。
朝鮮の方が、長野県松代大本営地下壕を掘ったと絵本で知っていましたが、この前橋の飛行場の作業をしていたとは知りませんでした。
道具は、それぞれスコップやクワを持参して行ったそうです。
証言では、アメリカ軍は、ブルトーザーで、1週間で飛行場を造るということを知っていたそうです。「日本軍は、鍬とモッコで、1年たっても果たして出来上がるのか?」と内々に話をしたそうです。
昭和19年8月1日 前橋飛行場完成。
およそ1年2か月で完成。しかし、路面が悪いため未完の飛行場のようでした。
グライダーや練習機の訓練が始まりました。
昭和20年2月 中島飛行機の工場や格納庫、いろんな施設ができました。
昭和20年3月からは、特攻隊の訓練が行われました。
昭和20年7月 前橋飛行場を米軍が襲い、飛行機が破壊されたり、民間人にも死傷者が出ました。
昭和20年8月5日 前橋空襲 535人以上が犠牲となる。
昭和20年8月15日 終戦
前橋飛行場で特攻訓練を受けた36名の内、出撃前に3名が事故死、沖縄戦では29名が戦死した。実際の戦火を確認することはむずかしく目標に到達できたのかわからない。と映画は締めくくられました。
その後、アメリカ軍よって接収され、荒れ地となっていましたが、米軍撤退後、復員者の救済策として農地転用となりました。1951年には、全耕地が売却されました。
まとめ
地元、群馬町の上映ということで、10時少し過ぎに行くとすでに行列になっていました。
待っている間、地元の高齢の方々が、次々に入場していきました。「兄弟全員で、きたよ。」「お父さんと来たよ。」「お母さんをつれてきたよ。」およそ300席くらいがほぼ満席になっていました。
チケットのもぎりの係りの方は、白いかっぽうぎを着ています。懐かしいです。よく母も婦人会に出かける時に着ていました。
映画になり記録に残ることとなり、より多くの人が知ることができます。
これからも、スポット的に上映されるかと思います。機会があれば、鑑賞することをおススメします。次回、印象に残ったことをご紹介したいと思います。↓
【感想】「陸軍前橋飛行場~私たちの村も戦場だった」風船爆弾?
最後まで、お読みくださりありがとうございます。